金平糖のイガは、どうやってできているのですか。気になるので調べてください。
誰もが一度は食べたことのある金平糖。星を思わせるたくさんのイガが美しいお菓子ですが、どうやってイガができているのでしょうか。金平糖について調べてみたところ、独自の製法を守り続けながら製造販売する日本唯一の専門店「緑寿庵清水(りょくじゅあんしみず)」を見つけました。ここなら教えてくれるだろうと、探偵たちは京都の出町柳の細い路地にたたずむ、趣ある町家づくりの店舗に向かいました。
のれんをくぐると、小さな店内はひっきりなしに出入りするお客さんでいっぱいです。棚にはピンク・緑・白・茶色など、美しい彩りが目にもあざやかな金平糖がたくさんあります。味も、紫蘇、濃茶、生姜、山椒と実にさまざま。えっ、ミルクにワインやブランデーを使ったものも!?どれもつやつやと輝いていて、「食べる宝石」とも言われている理由がよくわかります!
金平糖について、店の五代目にあたる清水さんにいろいろとお話をお聞きすることにしました。清水さんは、金平糖の歴史について「昔から日本にあったもののように思っている方が多いかもしれませんが、1546年にポルトガルからもたらされた異国の品々のひとつだったのですよ」と教えてくれました。このとき来日したポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、のちに織田信長に対面した際、南蛮菓子の「コンフェイト」を献上。フロイスが書いた『日本史』には、その形と味に信長が驚いたという記述があります。その後、コンフェイトは南蛮貿易で少しずつ入ってくるようになりましたが、江戸幕府が出した鎖国令によって貿易がなくなりました。しかし、金平糖は日本国内でつくられ続け、江戸時代末期には庶民の間にも浸透しました。
清水さんになぜ金平糖にイガができるのか、聞いてみました。「まずはこの金平糖の元になるものを見てください」と直径0.5mmぐらいの、吹けば飛んでいきそうに小さな粒を見せてくれました。これがどうやって金平糖になり、イガができるのでしょう?
この粒の正体は、餅米を砕いた「イラ粉」。金平糖の核として大きな釜に入れ、砂糖を溶かした蜜をかけて、徐々に水分を飛ばして乾燥、また蜜をかけていきます。約3日目でイガと言われる突起物が出てきて、約8〜10日ぐらいでイガが出揃い、その後16日~20日かけて約1cmぐらいになり、ようやく完成します。なんとも気の遠くなる作業に驚く探偵たち。
その後、「核となる『イラ粉』が、釜の上から下へ転がっていくとき、釜に触れた部分の蜜が乾いて少し固いところができます。そこがわずかに出っ張るためほかの場所よりも蜜がつきやすくなり、突起部分が段々と大きくなってイガになるんです」と清水さん。なるほど、イガが一ヶ所ではなく何ヶ所にもできるので、星のような形になるんですね!
「2週間以上もの日数をかけて仕上げるので、私たちにとって金平糖は『つくる』というよりも『育て上げる』ものなんです」と清水さんは言います。その育て上げ方はどうやって会得するのか聞いてみたところ、「驚かれるかもしれませんが、うちの金平糖づくりにはレシピがないんですよ」との衝撃の答えが返ってきました。えっ、それでは江戸時代からどうやって伝統の味を守ってきたの?
気温や天候、湿度は常に変化して同じ環境ではありません。「五感をフルに使い、大きな釜の上でザザーっと流れる音に耳を傾け、蜜の濃度や釜の温度などを調節しながら金平糖の状態を見極めることが必要とされます。「蜜掛け10年、コテ入れ10年」と、20年かけて体得する、この技術を一子相伝で伝承し、金平糖の声に耳を澄まして、長年培った経験と感覚だけでおこなってきました」。目を離すとすぐに金平糖が溶けたり、くっついたり、焦げたり、イガが丸くなり失敗してしまうので、早朝から夕方まで釜の前にたち、一分たりとも気を抜くことはできません。
現在「緑寿庵清水」の商品ラインアップは、約85種類にも及びます。「85種類あると、性質も85通り。しかも自然の食材を使うため、同じ素材であっても季節や出来具合で酸味が多いときや少ないときもあるんです。それらも見極めないといけません」と語ります。たとえば、梅に含まれる酸味がイガを壊してしまう、柚子の油分が加わると蜜が固まりにくいなど、果物などの素材を加えた金平糖は、砂糖だけの金平糖をつくる以上に難しいとされてきました。それをたゆまぬ努力の末に、砂糖と酸、油分、塩分は結晶しないといわれてきたお菓子づくりの常識を覆したのです。
ここで、核にイラ粉ではなく、玉あられを用いた「紫蘇あられの金平糖」を味見させてもらいました。「口に入れたら噛んでください」と清水さん。カリッと噛むと、塩漬けした紫蘇の香りと味わいがふわりと口いっぱいに広がります!これは驚き。「時間と日にちをかけて素材のお味を閉じ込めているので、噛むことでお味が広がるんですよね」。
緑寿庵清水は、江戸後期の弘化四年(1847年)に初代がのれんを上げ、二代目が今に通じる大きな釜をつくりました。その後、戦争を経て、三代目から少しずつ肉桂(ニッキ)や濃茶などの風味のある金平糖をつくりはじめ、四代目が本格的に、チョコレートやブランデーなどさまざまな素材の金平糖づくりに挑戦してきました。現在は、五代目が中心となり、新たな味をつくろうとさらなる挑戦をしています。
また、清水さんのお父さんにあたる四代目は、より金平糖を極めたいと金平糖のルーツを探してポルトガルを訪れたことがあったそうです。「昔ながらの製法でコンフェイトをつくるお店は残念ながら閉店していましたが、このときかつての職人から『どうかこのままずっと日本でつくり続けてくれ』と、最後につくられたコンフェイトを手渡されました」と語ります。「金平糖に対する熱い思いを五代目である自分が受け取り、ほかにはないもの、自分にしかできないものをつくり出して、六代目へとバトンを渡していきたいですね」と清水さんは語ります。
小さな一粒に込められた、職人の技と熱い思い。ガリガリッと噛むごとにジュワッと広がる味わいに、金平糖の奥深さを感じた探偵たちでした。