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テスラは現クロアチア共和国のリエカ地方に生まれました。わずか5歳で小型水車を発明するなど、幼いころから神童ぶりを発揮し、特に数学では飛び抜けた成績を収めていました。青年になってもその明晰さは失われず、グラーツ工科大学に入学。ある授業で「グラム発電機(発電機とモーターの機能を併せ持つ直流電流の発電装置)」がモーター回転時に火花を発しているのを目にしたテスラは、そこにエネルギーの損失が起こっていることを見抜き、発電方法の改善を考えはじめます。そのわずか5年後には、世界ではじめての交流電流の発電装置を発明(二相交流モーター)。テスラは、これをもとに交流電流による発電・送電のアイデアを発展させていきました。
交流とは、電気の流れや電圧が変化する特性があり、現代の家庭用コンセントから供給される電流のことを指します。一方の直流は、同じ電圧を維持したまま一定方向に流れる、乾電池やバッテリーなどで発生する電流のこと。テスラが考えた交流電流による送電方法は、直流電流よりもコストがかからず、利用者の扱いやすい電圧に変圧できるメリットがあります。テスラは1884年に、交流の送電方法を世界に広めたいという夢を胸に渡米。当時、革新的な発明品を次々と世に送り出していたエジソンの下で働くチャンスを得ます。しかし、当時のアメリカでの電力供給の仕組みは、エジソンが開発した直流電流を使用していたため、エジソン自身はテスラの案に否定的でした。それでも、テスラの情熱は揺らぎません。ふたりの確執は深まる一方で、翌年にはテスラはエジソンの会社を去ることになりました。
その後、テスラは職を転々としながらも徐々に協力者を得て、発電機、モーター、変圧器、制御装置などの交流電流による電力供給の仕組みをさらに改良。アメリカ電気工学者協会でこれまでの成果を発表すると、たちまち世界的な注目を集めるようになりました。交流支持派が増えるにつれ、エジソンは直流電流の優位性を保つために、交流電流は危険だと広める活動を活発化させます。たとえば、死刑用の電気椅子に交流電流を採用させようと働きかけるなど、容赦のないものでした。対するテスラも100万ボルトの交流を自身の体に通すなど、安全性をアピール。この泥沼の戦いは「電流戦争」として数年にわたって続きました。
その後、テスラの努力の甲斐あって、交流電流の有用性と安全性は次第に人々に認められていきます。1893年、シカゴ万博やナイアガラの滝での発電事業に交流電流が採用されると、世界中が交流へと大きくシフトしていくことになりました。
発明王エジソンに真っ向から挑み、その戦いに勝利したテスラ。現代でも送電には交流電流が使われており、遠くまで安定して電気を送れる仕組みを世の中に定着させた功績は計り知れません。
参考書籍:知られざる天才 二コラ・テスラ エジソンが恐れた発明家 新戸雅章(平凡社新書)、変人偏屈列伝 荒木 飛呂彦, 鬼窪 浩久(集英社文庫―コミック版)