大阪市大正区では、どうして今でも渡し船がたくさん運航しているのですか?
水の都・大阪市の中でも、たくさんの川や運河に囲まれ、水にゆかりの深い大正区。ここでは、いまでも地元の方々の生活の足として「渡し船」が使われています。今回は、大正区のまちで、昔ながらの渡し船が残っている理由を探っていきたいと思います。
まずは大阪市役所に電話をかけて、渡し船について尋ねてみました。すると「建設局で管理しているので、そこで詳しく話を聞いてみてください」とのこと。そこで、大阪市建設局の河川・渡船管理事務所に足を運びました。
担当者さんのお話によると、明治の途中までは、大阪の各地にあった渡船場は民営だったそうです。その後、明治24年に大阪府が「渡船営業規則」を定め、監督・取締りを行うようになりました。明治40年には安治川・尻無川・淀川の29ヶ所の渡船場が市営事業となり、大正時代に入ると請負制から市の直営方式に移行され、乗船料は無料となりました。そして、昭和10年頃には、年間のべ乗船者数は5,700万人を超えるほどの重要な交通手段となりました。
この渡し船、実はいまでも運賃は無料!同じ市営交通機関でも、バスや地下鉄では運賃を払う必要がありますが、渡し船は無料。一体この違いはなぜなのでしょうか。担当者さんにお伺いしたところ、その理由は「渡し船は、川や運河に囲まれた大正区内において、道路や橋と同じく、岸と岸を結ぶルートとして地元民にとってなくてはならないものだから」とのこと。だから、管轄が交通局ではなく、建設局だったんですね。
次に、実際に渡船場へ行ってみました。お邪魔したのは、大正区泉尾・港区福崎の間をつなぐ尻無川の「甚兵衛渡船場(じんべえとせんじょう)」。その名の通り、甚兵衛さんによって設けられた船着場で、江戸時代の摂津の国の地誌「摂津名所図会」にも掲載されているのだそうです。
船長さんをはじめ職員のみなさんは、命を預かるお仕事ということもあり、運航にはとても気を配っています。運航に携わる職員さんはみな小型の一級・二級船舶免許のいずれかを持ち、免許の更新に向けた研修以外にも、現場での着岸など自主的な訓練や、船のメンテナンスにもこつこつと取り組まれています。
メディアでは、大正区の風景や風物詩として取り上げられることも多い渡し船ですが、利用者にとっては、毎日使う大事な生活の足。例えば、この甚兵衛渡船場が無くなると、1キロ近く先の急勾配の橋を渡らなければなりません。ご近所の方に尋ねると「あの橋を渡るのは、だいたい元気な学生さんやね。坂がきついから私らはよう渡らんわ~」とのこと。
船長さんたちは、命を預かる責任感と、地元民の生活の足である交通を途絶えさせたくない、という使命感を胸に、日々渡し船の運航を支えています。甚兵衛渡船場の場合、定期休航は元日の1日のみ。台風や雨といった天候などの理由で、やむを得ず運航を休止する場合は、皆に状況を伝えるために信号を赤く光らせて知らせます。
甚兵衛渡船場での1日の乗船者数は平均1,580名。ダイヤは10~15分間隔が基本ですが、平日朝のラッシュ時には2隻の船が同時に運航する「随時運航」というスタイルをとって輸送力をアップしています。
渡し船を待っている間、利用者の泉尾工業高校の生徒さんに少しインタビューしてみました。
「(渡し船は)屋根はあるけど、雨の日は横から雨が降り注いでくるんで、大変っすわ~。でも毎日乗せてもらってるし、コレないと通学ムリ!ありがとうございます。」
ちょっとはにかみながらも感謝のコメントをくれました。
船を降りる時には、この学生さんだけでなく、ほとんどの方が「ありがとう」「おおきに」と一声かけていきます。大正区のみなさんにとって、なくてはならない渡し船。いまもまちに残っているのは、地元の暮らしに欠かせない交通手段であり、まちの一部だったからなんですね。そんな大阪の渡し船が気になってきた方は、以下のリンクから「大阪 渡船場マップ」をご確認の上、足を運んでみてください。
- 大阪市建設局西部方面管理事務所河川・渡船管理事務所
- 大阪 渡船場マップ