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1847年2月、アメリカ・オハイオ州で材木商を営む父と元教師の母の間に生まれたエジソン。幼いころから好奇心が旺盛で、周囲の大人たちに質問ばかりしては困らせていました。また、質問するだけでは飽き足らず、なんでも即実行に移すのがエジソンのやり方。「なぜ物は燃えるのか」を知りたくて納屋に火をつけてしまったり、自作の薬品を友だちに飲ませて困らせたり。小学校に入学してからもその性格は治る気配を見せず、わずか3か月で教師たちから手に負えないと見放され、退学することになってしまいました。そんなときに手を差し伸べたのが、エジソンにとっていちばんの理解者である母。元教師の経験も手伝って、エジソンにさまざまな教育を施していきました。好奇心を満たすことと同じくらい働くことも好きだったエジソンは、16歳のころには優秀な電信技師として活躍。そこで得た収入のすべてを発明や研究のための費用としてつぎ込み、寝る間も惜しんでさまざまな実験を繰り返します。22歳のときには、ボストンで証券取引の現場を目にしたことがきっかけで、刻々と変わる株式相場を取引所から離れた場所でも正確に確認できる電信株式相場表示機を発明。これによって、若くして多くの利益と発明家としての名声を手に入れました。
株式相場表示機のヒットなどから、発明家としての地位を確立したエジソンは、ニュージャージー州メンロパークに最新鋭の研究所を建設。ここでエジソンは、多くの部下たちとともに「万人が欲するもの」を理念に発明に取り組みます。「発明家・エジソン」の名をさらに世界に知らしめることになったのは、実用的な白熱電球の開発でした。これまで使われていたローソクやランプよりも明るく、一部で使われ始めたアーク灯やガス灯よりもコストを抑えられて万人が安全に使えるもの。そんな照明器具として目をつけたのが「白熱電球」でした。エジソンは100人もの部下を従えて、白熱電球の開発に打ち込みました。白熱電球の基本原理はフィラメントに電流を通して発光させることですが、空気に触れるとフィラメントがすぐに燃えてしまうという問題がありました。それを克服するため、エジソンはまず電球のガラス内を極限まで真空に近づけることにこだわりました。さらに、フィラメントの素材にも試行錯誤を繰り返します。木綿の糸、木材、友人のヒゲなど、あらゆるものを炭化させて実験。その結果、繊維菅が太く、強い竹なら長時間使えることが判明。そこで、世界中から竹を取り寄せたところ、特に京都の竹が最適な素材と突き止めました。以来、セルロースによるフィラメントが登場するまでの10年以上にわたって、エジソンの白熱電球に京都の竹が使用されました。
白熱電球の開発に成功したエジソンは「24時間明るい暮らし」を広めるため、電力供給システムの整備に乗り出します。必要なのは電力を生み出すための発電所、電力を届けるための送電網など、インフラ設備だけではありません。電力の使用量を各家庭で測るためのメーター、安全性を高めるためのヒューズ、各電気器具ごとにオン・オフできるようにするスイッチ、壁に埋め込むコンセント、送電線への接続ボックスなど、今でも使われている電気設備の数々をエジソンは開発し、電力供給事業を確立させたのです。その後もエジソンの情熱は年を重ねてもなお健在でした。蓄音機に改良を重ねたり、映画のもととなった活動写真の開発に取り組んだり、自分で開発した電池を使用した電気自動車の走行を成功させたり……。あり余るバイタリティを武器に、自分の夢をカタチにするために現代にも残る発明品の数々を世に送り出し続けました。
参考書籍:小学館 新訂版オールカラー世界の電気3 エジソン(文:西沢正太郎)、オーム社出版局 図説エジソン大百科(著:山川正光)