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1863年、現在の新潟県長岡市に生まれた屋井先蔵は、幼いころから天体や水車、コマなど回り続けるものに興味を寄せていました。13歳で奉公に出て時計店で働くようになると、精密に回り続ける歯車たちのとりこに。しだいに「永久に運動を続ける『永久機関』をつくりたい」という夢を抱くようになります。その後屋井は機械についてさらに学ぶために上京し、東京職工学校(現在の東京工業大学)への入学を目指します。ところが、2度目の受験の際、正確な時計が周囲にひとつもなかったために遅刻してしまい、受験できないという経験をしました。当時の時計は手動のゼンマイ式が主流で、街中で目にできる時計が示す時刻もバラバラ。屋井はこのときの経験が引き金となって、電気で常に正確に時を刻む「連続電気時計」の開発に、情熱を注ぐようになりました。
屋井の努力によって「連続電気時計」は完成しましたが、売れ行きはあまりよくありませんでした。売れなかった理由は、電源に使っていた液体電池(湿電池)には「冬になると内容物が凍り使えなくなること」、「ひんぱんに液漏れが起きるのでメンテナンスが面倒」といった欠点があったためでした。そこで屋井は課題を解決すべく新たな電池の開発に着手。日中は親戚が営む工場で働きながら、それ以外のほぼすべての時間を研究と開発に費やし、試行錯誤の末に薬液が浸み込んだパラフィンで炭素棒を固めて、液漏れしづらく改良した電池をつくりあげました。この発明品は、「湿電池」に対して「乾電池」と名づけられました。
そのころの日本では電気製品が普及していなかったため、屋井の乾電池は発売当初、思うように売れませんでした。ところが、1894年からはじまった日清戦争において、厳冬の満州で照明や通信機器を使用するための電源として屋井の乾電池に白羽の矢が立ち、ようやく日の目を見ることになったのです。新聞でも「日本がこの戦争に勝利したのは、屋井が発明した乾電池のおかげ」と大きく取り上げられたことで、屋井の乾電池は知名度と信頼度が一気に上昇。ビジネスとしても大きな成長を遂げ、数年後には「乾電池王」の異名を取るまでになりました。
今でこそ、いつでもどこでも電気を持ち運べるのが当たり前の世の中ですが、そうなったのはひとりの青年が試験に遅刻したことから。その挫折をエネルギーにしたことで、現代の世の中にまで通じる偉大な発明品となったのですね。
※屋井氏の経歴については史料によって見解の異なるものもあります。あらかじめご了承ください。
参考書籍:白いツツジ 上山 明博(PHP研究所)、科学感動物語 4 発明(学研教育出版)、技術者という生き方(発見!しごと偉人伝) 上山 明博(ぺりかん社)、世界を驚かせた日本人の発明力(アスキー新書 157) 竹内 一正(アスキー・メディアワークス)、探究のあしあと -霧の中の先駆者たち-日本人科学者-(教育と文化シリーズ 第2巻) 結城 千代子(東京書籍)、世界にかがやいた日本の科学者たち 大宮 信光(講談社)、日本の『創造力』 -近代・現代を開花させた四七〇人- 8 消費時代の開幕(日本放送出版協会)