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1736年
スコットランド・グリノックに生まれる
1754-1755年
ロンドンで機械製造の技術を学ぶ
1757年
グラスゴー大学の器具製作者の職に就く
1763年
ニューコメン機関(エンジン)の修理をきっかけに、蒸気機関に関心を持つ
1765年
シリンダーと復水器を分離させる分離凝縮器の開発に取りかかる
1775年
共同事業としての「ボールトン・アンド・ワット商会」を設立
1776年
分離凝縮器を用いた蒸気機関の開発に成功
1781年
ピストンの上下運動を回転運動に変える技術で特許を取得
1800年
事業から引退
自宅にて石油ランプの改良や、蒸気式絞り器の開発などを楽しむ
1819年
ハンズワースの自宅で死去
1736年、スコットランドの西海岸・グリノックに生まれたジェームズ・ワット。家や船などあらゆるものをつくる大工をしていた父のもとで、幼いころからものづくりの基本を学びながら学業にも励み、数学、物理、化学の成績が優秀な青年へと成長しました。18歳で科学機器の製造技術を学ぶためにロンドンへ渡った後、21歳のときにグラスゴーを拠点に、計測器や実験機器の製造を生業とする店を開こうと準備をはじめました。ところが、地元で技術の修行を積んでいないことを理由に、職人組合から猛烈な反対を受けたのです。困り果てた彼に助け舟を出してくれたのが、以前から親交があったグラスゴー大学の教授でした。大学の機械類を直す仕事を任されるようになったワットは、持ち前のセンスと知識で複雑な機器を次々と修繕。みるみるうちに、大学内での評判を高めていきました。
ある日、当時の炭鉱で湧き水の汲み上げに利用されていた「ニューコメン機関(エンジン)」の修理をしたワットでしたが、修理後もこの機関の燃料効率の悪さが気にかかり、その表情は晴れないままでした。ニューコメン機関は、ひとつのシリンダーで蒸気を温めたり冷やしたりする構造となっており、多くの燃料が必要でした。これを解消しようとワットは試行錯誤を繰り返すものの、成果は上がらず悩んでいました。そんなある日、ワットは気分転換で散歩に出かけたところ、上空を流れる雲をぼんやり見ていてあることに気づいたのです。シリンダーの中に蒸気を閉じ込めておくのではなく、流れる雲のように移動させればいいということに。ワットはシリンダー内で温められた蒸気を別の容器に移動させることで、シリンダー内は高温を保ち、蒸気を移動させた容器は低温を保つ「分離凝縮器」を開発しました。この「分離凝縮器」が、新しい蒸気機関の原形となりました。
開発には成功したものの、これを市場に売り出すには精度の高いシリンダーの製造や職人の確保、そして資金など課題は山積み。そこで、友人であり起業家のボールトンとともに「ボールトン・アンド・ワット商会」を設立して、資金援助を受けながら共同事業としてさらなる研究を続けました。1776年、ついに従来の3分の1の石炭量で安定して出力する新しい蒸気機関の開発に成功します。ワットの蒸気機関はニューコメン機関の代わりに、数々の炭鉱で湧き水の汲み上げに利用されるようになりました。
やがて、「ボールトン・アンド・ワット商会」には、後にガス灯の発明で名を上げる若きマードックも加わります。ワットとマードックはピストンの上下運動を回転運動に変える仕組みを発明し、蒸気のエネルギーを水の汲み上げ以外にも利用できるようにしました。これによって従来の人力・畜力・水力・風力に変わる動力として、産業革命の原動力になるとともに蒸気船や蒸気機関車の実用化などへとつながっていきました。
1800年に64歳で事業から身を引いた後も、ものづくりへの情熱や好奇心は失わず、石油ランプの改良や蒸気式絞り器の発明などに取り組んでいたというワット。改良を重ねた蒸気機関は、ピストンを上下させるシリンダー式から回転式、さらに蒸気が噴き出す力で羽根車を回すタービン式へと姿を変えながら、現在もさまざまな動力源として活躍しています。
参考書籍:世界史リブレット人59 ワットとスティーヴンソン 産業革命の技術者 大野誠(山川出版社)、<技術の歴史>2 産業革命から原子力へ ワット 蒸気機関 井野川潔(けやき書房)